- The Rest Is Sheep
- Posts
- #068_Sheep すべてが「演技」に見える時代
#068_Sheep すべてが「演技」に見える時代
マッチャラテを飲みながらフェミニズムの本を読む男性は「パフォーマティブ・メイル」、カフェで難解な小説を読む人は「パフォーマティブ・リーディング」──2025年、あらゆる行為が「本物」か「演技」かの検閲にさらされた。なぜ私たちは他人の不自然さに過敏になり、同時に自分も常に「見られている」と意識せずにはいられないのか。SNSとECが一体化した消費文化の均質化、啓蒙時代から続く「本物であれ」という西洋思想の強迫観念、そしてパノプティコン的な相互監視構造──フーコーやカント、現代の文化研究者たちの視点を交えながら、「想像上の観客」と戦い続ける私たちの姿を解き明かす。

“The Rest Is Sheep”は、デジタル時代ならではの新しい顧客接点、未来の消費体験、さらには未来の消費者が大切にする価値観を探求するプロジェクトです。
役に立つ話よりもおもしろい話を。旬なニュースよりも、自分たちが考えを深めたいテーマを――。
そんな思いで交わされた「楽屋トーク」を、ニュースレターという形で発信していきます。
↓無料登録はコチラから↓
🔍 Sheepcore
カルチャー、アート、テクノロジー、ビジネスなど、消費者を取り巻く多様なテーマをThe Rest Is Sheepのフィルターを通して紹介します。結論を出すことよりも、考察のプロセスを大切に。
すべてが「演技」に見える時代

©️The Rest Is Sheep
さて、では本日も始めていきましょう。
以前「パフォーマティブ・メイル」についての講義をしましたが、2025年を振り返ってみると、もう本当に「パフォーマティブ」っていう言葉を聞かない日はなかったんじゃないか、っていうくらい(笑)。SNSのタイムラインでも、リアルの会話でも、とにかくこの言葉があふれてました。
男性がマッチャラテを飲みながらフェミニズムの本を読んでいるだけでパフォーマティブ・メイルだと揶揄され、読書や趣味、アクセサリーやメイク、果ては「精神的な成熟」に至るまで、あらゆるものが「本物(オーセンティック)」か「演技(パフォーマティブ)」かの検閲にかけられています。
で、ここで不思議なのは、なぜ今、私たちはこれほどまでに「他人の不自然さ」に敏感になっているのか、ってことなんです。同時に、自分自身も常に「見られている」って意識せずにはいられない。この二つの感覚は、実は表裏一体なんですよね。
今日の講義は、ある意味で2025年を象徴するような言葉となった「パフォーマティブ・カルチャー」について。以前の講義では「パフォーマティブ・メイル」という男性像を素材に、ジュディス・バトラーによる有名な「ジェンダーはパフォーマティブである」という言葉なんかも参照しましたが、今日はまた違った角度から「パフォーマティブの沼」──まあ、みんな沼にハマってるようなもんです(笑)──に迫っていきたいと思います。
@jen.trt 1st performative male contest in Canada taking place in Toronto 🤣🤣🤣 #performativemale
消費文化の均質化
ではまず、なぜここまで何もかもが「パフォーマティブだ」と疑われるようになったのでしょうか。その背景としてよく指摘されるのが、消費文化の均質化(homogenization)──みんな同じようなものを買って、同じような行動をするようになっちゃったってこと──ですね。
かつて、InstagramやTikTokって「友達と日常を共有する場所」だったわけですよね。でも今、これらのプラットフォームは完全に「ショッピングサイト」としての顔を持つようになりました。画面を見てて「いいな」と思った服や雑貨が、その場ですぐに買えますし、インフルエンサーだけでなく一般の人も、自分が買ったものをカタログのように紹介するわけです。
つまり、SNSを開くことは、常に「売り手」か「買い手」としての振る舞いを求められる舞台に立つのと同じことなんです。コミュニケーションの場というより、もはや巨大なショッピングモールにいるような感覚ですよね。
こうした環境の中で、私たちの消費行動は大きく変わってきています。シートン・ホール大学のジェス・ラウチバーグ准教授は、特徴的な例として「shoe haul(シューホール)」──これは「買った靴を紹介する動画」のことですね──とか、「ギフトガイドのインフォグラフィック」を挙げています。
以前は単純でした。「自分が履きたいから靴を買う」。でも今は違う。「SNSで「センスの良い自分」を演出するために、その動画に映える靴を買う」っていう、なんていうか、順番が逆転しちゃってるわけです。
「ウィアード・ガール(ちょっと変わった女の子)」というキャラを演じるために、わざと個性的な靴を買って動画にする。「クールガイ」というイメージを作るために、洗練されたアイテムのリストを作成して投稿する。何を買うかという行為そのものが、SNSという舞台で「特定のキャラクター」を演じるための小道具になってしまったんです。
@oldloserinbrooklyn My weird shoe collection. I love nothing more than a fun unique shoe collection. #designershoes #shoecollection #miumiu #tabis
で、ここからがおもしろい──というか皮肉なところなんですが、こうした投稿が積み重なると、一定の「パターン」が生まれます。「ウィアード・ガールはこういう靴を買う」「クールガイはこういうギフトを選ぶ」といった、テンプレートのようなものが自然と形成されるんですね。
そして、そのパターンが明確になればなるほど、人々は疑い始めるわけです。「この人は本当にそれが好きでやっているのか、それとも「ウィアードガール」というイメージを作るためにわざとやっているのか?」と。「パフォーマティブ・メイル」がまさにそうですよね。トートバッグを持って、抹茶を飲んで、フェミニズムの本を読む男性たち。これらは本当に彼らの好みなのか、それとも女性にモテるための計算された演技なのか、って。
SNSというシステムが「自分を見せろ」と促し、その結果として行動がテンプレート化される。なのに、その通りに行動すると「演技的だ」「不誠実だ」と批判されるという皮肉(笑)。私たちは、メディアの構造そのものが作り出した、避けがたい罠にハマっているんです。
「本物であれ」という近代の呪い
それにしても、なぜ私たちはこれほどまでに「本物かどうか」を気にするのでしょうか。ここで少し、歴史的・哲学的な背景を見ていきましょう。
「オーセンティシティ(authenticity)」──日本語では「真正性」「本物であること」と訳されますが──この概念への執着は、啓蒙時代以降の西洋思想に深く根づいています。
18世紀の哲学者、カントは、人間は自らの理性を用いて、自律的で成熟した存在、つまり「本当の自己」に到達すべきだと考えました。彼は、『啓蒙とは何か』のなかで古代ローマの詩人ホラティウスの「Sapere aude!(自分の理性を使う勇気をもて/賢明になることを懼れるな)」という言葉を引用し、他人の権威や慣習に頼らず自分の理性で考えることで、より成熟した「自律的な個人」になることの重要性を説きました。他人の指示を仰がなければ判断ができない、自分の理性を働かせる勇気がない者は自律できていない状態であると考えたわけですね。
一方、ルソーは「人間には、社会に触れる以前から、すでに「本当の自分」が内側に存在している」という発想を持っていました。ルソーにとって重要だったのは、「社会の中でうまく振る舞うこと」ではなく、「社会的な仮面の奥にある、自分自身の感情や良心に忠実であること」でした。他人にどう思われるかではなく、自分が本当にどう感じているか。外から与えられる価値ではなく、内側から湧き上がる感覚。それこそが、人間の自由と道徳の基盤だと考えたのです。
こうした「本物(オーセンティック)であれ」「本当の自分を見つけよ」「他人に流されるな」といった自己探求の語りは、現代の自由主義社会においても根強く残っています。「ポーザー(poser)」──気取ってる人、偽物──は、ある種の不道徳なものとして忌み嫌われる。スケートパークで装備だけは完璧だけど滑り方を知らない人、コンサートで歌詞を一つも知らないファン、あるいは政治デモでウィットに富んだプラカードを作ったけど自分の選挙区の代表者の名前を知らない人──こういう人たちは「ポーザー」「偽物」として軽蔑されるわけです。
特にアメリカ社会では、この発想が建国神話と強く結びついています。個人を不当な制約や支配から解放して、真の自分を発見させて、宗教や人種、ジェンダー、階級的背景に関係なく何にでもなれる──アメリカン・ドリームの根幹にある約束ですね。もちろん、この約束は何世紀にもわたって不平等にしか実現されてこなかったし、今でも実現できているとは言い難い。ただ、現実は不完全でも、この神話は、いまだに社会を動かすエンジンとして機能しています。
フーコーが疑ったもの
しかし、ミシェル・フーコーという哲学者が、この「本当の自分」探しという発想そのものに冷や水を浴びせます。彼に言わせれば、内面に意識を集中させて「これが本当の私だ!」「あいつは偽物だ!」と騒いでいる間に、私たちはより強力な力を見逃しているのです。
フーコーが警戒したのは、健康、教育、性、労働といった領域を通じて人々を形づくる「制度的な支配」でした。それは命令ではなく、「健康であるべきだ」「学び続けるべきだ」「正しく働くべきだ」といった、一見もっともらしい価値観として生活に入り込み、気づかないうちに私たちの「望ましい生き方」を設計していく。
その結果、人は強制されなくても、自分からその枠に沿って振る舞うようになります。「そうするのが当たり前だ」「そうしないと変だ」と思うようになる。フーコーはこれを「生権力(バイオパワー)」と呼びました。歴史的に王が臣民に対して持っていた「殺す(死に至らしめる)」権力ではなく、人間の「生」そのもの(身体、健康、繁殖、性など)を管理し、生産的な(= 支配しやすい)市民を作り出す、「(生を)生かす」「管理する」権力、みたいな意味ですね。
この視点で現代を眺めると、風景は少し変わって見えてきます。「あのフェミニズムはパフォーマティブだ」「あの企業のSDGsはポーズだ」。私たちは日々、他人の姿勢の純度を見張ってますよね。誰が本物で誰が偽物か、っていう審査に夢中になってる。
でも、その審査への没頭の裏側で、実はもっと深刻なことが起きています。例えば読書です。「あいつの読書はパフォーマティブだ」って笑ってる間に、アメリカでは娯楽としての読書が20年前より約40%減少し、基礎的な読解力を欠いた子どもが増え続けています。大学では人文学部が縮小され、AIツールへの依存が加速してる──以前の講義でお話した「アルゴリズムの氾濫が文化を停滞させている、というもっともらしい議論が、アーティストの活動を困難にしている経済格差や社会構造といった大きな問題を覆い隠してしまっている」という話とも近いかもしれません。
つまり、「あの読書はポーズだ」って批評してるあいだに、そもそも「読む」という行為そのものが、社会の中で急速に痩せ細っているわけです。パフォーマティブかどうかを問う前に、問うべきことがあるんじゃないか。なぜ今、読む力が失われているのか。なぜ知的な営みが持続しにくくなっているのか。こういった「構造的な問題」に向き合わなければならない。フーコーの警告は、まさにそこにあるんです。
「想像上の観客」という現代の病
さて、ここでもう一つの現象を見ていきましょう。SNSのタイムラインを眺めていると、最近「Imagine hating me and I’m just...」というフレーズを耳にします。日本語にすると、「私のこと嫌いらしいけど、私はただ◯◯してるだけなのに」みたいな感じですね。
これ、一見すると自虐的なユーモアにも見えるんですが、実はもっと不穏な事態を示唆しています。つまり、私たちは日常生活の何気ない瞬間においてさえ、「誰かが自分を監視し、評価し、あるいは嫉妬している」という視線を常に想定してしまっているということです。
作家のエイサ・セレシンは、これを「自分たちがセレブリティでもないのに、ファンやアンチといった「想像上の観客(imagined audience)」を内面化してしまっている状態」だと鋭く指摘しています。誰も自分を見ていない部屋で一人でいるときですら、脳内の「観客」に向けてポーズをとってしまう。投稿する前の「下書き」の段階で、すでに誰かからの反論や嘲笑を先回りしてケアしてしまう。
セレシンはさらにこう続けています。「人々が互いに「本物じゃない」「パフォーマティブだ」と取り締まっているとき、それは実際には自分自身の「投影(projection)」なんだ」と。
私たちは、自分の感性がアルゴリズムに誘導された「既製品」ではないか、という不安を抱えています。「自分が好きなものが、本当に自分が選んだのか、それともアルゴリズムに誘導されただけなのか」「自分のこのスタイルって、本当に自分らしいのか、あるいは誰かの真似なのか」──こういう不安です。
その不安と正面から向き合うのが辛いことを知っているからこそ、他の人々を「あいつは本物じゃない」と非難することで、自分は「見抜く側」に立とうとする。他人のパフォーマンスを叩くことは、「自分はそちら側ではない」と確認し、不安を鎮めるための心理的なセーフティゾーンに入る行為なんですよね。
パノプティコン:監視を内面化した私たちの「生存戦術」
そして、この「見られている」という感覚は、単なる自意識過剰の問題ではありません。構造の問題なんです。
アルバータ芸術大学のクリスティン・トラン准教授はこう言います。「Z世代は、パノプティコンが当たり前のものとして受け入れられている環境で生まれた世代だ」と。
パノプティコンは、18世紀にジェレミー・ベンサムが考案した有名な監獄モデルです。円形の建物の中央に監視塔があって、そこからは全ての独房を見ることができる。でも囚人たちからは監視塔の中が見えない。囚人たちは「いつ見られているか分からない」ので、常に見られていると仮定して行動するようになる。結果、看守がいなくても規律が保たれる、という仕組みです。

パノプティコン
SNS社会は、この構造と驚くほどよく似ています。誰が見ているかは分からない。でも、誰かが見ている「かもしれない」。その「かもしれない」が、私たちを支配するんです。
投稿する前に、何回も文章を読み返す。写真を何枚も撮り直す。「これは恥ずかしくないか」「変に思われないか」「炎上しないか」「いいねがもらえるか」──こういうチェックリストを、頭の中で高速で回しています。誰も見ていないかもしれないのに、私たちは自分を検閲してるんですね。
ここでは、パフォーマンスはもはや「趣味」や「見栄」ではなく、不安定なデジタル経済を生き抜くための「生存戦術」へと変貌しています。ブランドからも、潜在的な雇用主からも、フォロワーからも、私たちは常に監視され、評価されている。だったら、その評価を最大化するために自分を演出するのは、合理的な選択じゃないですか。
でも、その結果として何が起きるか。みんながパフォーマンスするようになり、そのパフォーマンスを他の人が「パフォーマティブだ」と批判し、その批判を恐れてさらに慎重にパフォーマンスするようになる──この無限ループに、私たちは囚われている。それが、パノプティコンの現代的な姿です。
演じる自分を「受け入れる」ということ
さて、ここまでお話ししてきた通り、現代社会において「演じること」は、もはや避けることのできない条件のようになっています。SNSというパノプティコンの中で、私たちは常に「想像上の観客」の視線を内面化しています。
でも、ここで一度、冷静に考えてみてほしいんです。先ほど紹介した「私のこと嫌いらしいけど、私はただ部屋でコーヒー飲んでるだけなのに」というあのフレーズ。このミームの皮肉な事実は何だったしょうか。
それは、「実際には、誰も私たちのことなんてそれほど考えてはいない」という現実です(笑)。
私たちは、自分を監視し、評価し、批判する「誰か」を想像して戦っていますが、その「誰か」もまた、自分の観客に向けたパフォーマンスに必死で、他人のことを見る余裕なんて。ほとんどない。セレシンが言うように、私たちは皆「自分たちがセレブリティであるかのような幻想」の中に生きていますが、実態は、自分自身が作り出した影とシャドーボクシングをしているようなものかもしれません。
そしてもう一つ、インターネットの仕組み自体が「アルゴリズムによって分類可能な典型的パターン = トロープ」を強く求める構造になっていることです。プラットフォームは、「このタイプの人」「この趣味の人」という、ひと目で分かる枠組みに私たちを当てはめることで、はじめて機能する。
したがって、皮肉なことに、人びとが求める「authenticity(本物らしさ)」もまた、実際には「特定の枠組みの中で許可された本物らしさ」でしかありません。私たちは「本物になりたい」と願いながら、同時に、アルゴリズムが用意した「本物らしさの型」に収まることを求められているのです。
この状況では、誰もが「自分を商品として演出するパフォーマー」であり、同時に「周りの人を観察、評価する観客/批評家」でもあります。
だからこそ、誰かを「パフォーマティブだ」「偽物っぽい」と断罪する行為そのものが、とても皮肉なものになる。それは、自分の中にも確実に存在している「演じる自分」を棚に上げて、石を投げているようなものだからです。
ここで大事なのは、「演じること」から降りようとすることではありません。そうではなく、自分も演じているのだ、という事実に自覚的でいること。そして、他人も同じ条件の中で演じているのだと、少しだけ寛容に見ること。
以前の講義でも引用しましたが、シェイクスピアはこう言いました。「この世界すべてが一つの舞台、人はみな男も女も役者にすぎない」。おそらく、この言葉は、パフォーマティブ・カルチャーの時代を生きる私たちにとって、いまなお有効な知恵なんだと思います。

シェイクスピア
さて、そろそろまとめに入りましょう。今日見てきたことを整理すると、ポイントは4つです。
第一に、この「パフォーマンスの沼」は、個人の性格やモラルの問題ではなく、SNSとECが一体化した消費文化、アルゴリズムによる分類、そしてパノプティコン的な相互監視構造が生み出したものだということ。
第二に、「本物であれ」という強迫観念に囚われすぎると、フーコーが警告したように、教育の衰退や文化政策、経済格差といった、より重要な構造的問題から目を逸らしてしまう危険があるということ。
第三に、「想像上の観客」と戦うのを、そろそろやめてもいいということ。実際には、誰もあなたのことをそこまで見ていませんし(笑)、見ている人も自分のパフォーマンスで精一杯です。
そして最後に──「すべてがパフォーマティブな時代に、本物になる方法」とは、演じないことではなく、演じている自分に自覚的でいることだ、という点です。
というわけで、みなさんも、もう少し気楽にSNSを使ってみてください(笑)。演じている自分を受け入れつつ、でも、その背後にある構造からは目を逸らさない。それが、この時代を生きるための、いちばん現実的なスタンスなのかもしれません。
では今日はここまで。お疲れさまでした!
🎙️ポッドキャストはコチラ!
※ 生成AIが客観的な視点でレビューしています🐏🐕
🐏 Behind the Flock
“Sheepcore”で取り上げたテーマをさらに深掘りしたり、補完する視点を紹介します。群れの中に隠された本質を探るようなアプローチを志向しています。
1. 「パフォーマティブ・リーディング」の奇妙な悪評
「パフォーマティブ・リーディング」とは、本を読む内容よりも「読んでいる姿」が自己演出として消費される現象を指す。難解な文学書を公共の場で読む行為は、知性や教養を誇示するものとしてSNS上で揶揄され、ミーム化してきた。背景には、あらゆる行為が「本物か演技か」で評価され、SNSが恒常的な自己ブランディングを促す文化がある。オンラインでは投稿自体が計算された行為となり、純粋な誠実さは疑われやすい。一方、著者はこの現象を虚栄心の問題ではなく、読書という行為そのものが社会的に理解されにくくなった兆候と捉える。読書量や読解力の低下、AIの普及、人文学軽視が進む中で、書物と向き合う時間は希少になった。『Infinite Jest』が象徴するように、読書とは孤独や不安に耐え、自分と向き合う行為であり、パフォーマティブに見える読書の裏には、自己探求への切実な欲求が潜んでいる。
2. 今やすべてがパフォーマティブだ
現代社会において「パフォーマティブ(演技的)」という言葉は、時代を象徴する重要な文化指標となった。かつては言語学や芸術の専門用語だったが、現在はSNS等で「観客を意識し、計算された不誠実な振る舞い」を指す表現として定着。背景にあるのは、私生活をコンテンツとして加工・発信する「演出」が「真正性」を上回るオンライン中心の生活だ。読書や政治的姿勢までもが自己演出の道具と化す中、人々は互いの作為性に敏感になり、メタ的な視点で行動を分析し合っている。この言葉の流行は、デジタルと現実が融合した世界で、アルゴリズムに翻弄されながら「真実味」を追い求める現代人の不安と皮肉な自意識を色濃く反映している。
3. パフォーマティブ・オフライン
2026年には「performative offlineness(パフォーマティブ・オフラインネス)」が台頭すると可能性がある。これは、意図的にオンラインでの存在感を極力抑える態度──Instagramの投稿を極端に少なくしたり、ストーリーを一切上げなかったり、アカウントを持たないことさえ「究極のクールさ」「自由の象徴」として見せる──を指す。著者はこれを単なる休憩や皮肉ではなく、戦略的で強い意志を持った選択だと強調。追跡・監視を拒否し、神経系をハイジャックされないよう守り、AIへのデータ提供を拒む姿勢だ。パンデミック時の自己抑制や、過剰開示による信頼崩壊・現実の代償化が背景にあり、著者自身も健康問題を抱えながら「見られたい」という衝動と戦ってきた経験から、この「読み取られにくい」生き方を切実に願っている。
🫶 A Lamb Supreme
The Rest Is Sheepsが日常で出会った至高(笑)の体験をあなたにも。
今週もお休みです 🐏
すべての誤字脱字は、あなたがこのニュースレターを注意深く読んでいるかを確認するための意図的なものです🐑
この記事が気に入ったら、大切な誰かにシェアしていただけると嬉しいです。
このニュースレターは友人からのご紹介でしょうか?是非、ご登録お願いします。
↓定期購読はコチラから↓



