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#030_Sheep 文化を盗んだっていうけれど(後編)

「文化の盗用」批判は、果たして文化を守るのか、それとも文化の発展を阻害するのか。時に感情的な対立を招き、建設的な対話を困難にするこれまでの議論を超えて、文化の多様性を守り、豊かな未来を築くために、私たちが持つべき視点を探る。私たちが今、見つめ直すべきは「文化の盗用」という言葉そのものなのかもしれない。

“The Rest Is Sheep”は、デジタル時代ならではの新しい顧客接点、未来の消費体験、さらには未来の消費者が大切にする価値観を探求するプロジェクトです。

役に立つ話よりもおもしろい話を。旬なニュースよりも、自分たちが考えを深めたいテーマを――。

そんな思いで交わされた「楽屋トーク」を、ニュースレターという形で発信していきます。

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カルチャー、アート、テクノロジー、ビジネスなど、消費者を取り巻く多様なテーマをThe Rest Is Sheepのフィルターを通して紹介します。結論を出すことよりも、考察のプロセスを大切に。

文化を盗んだっていうけれど(後編)

©️The Rest Is Sheep

経済学者のTyler Cowenさんが『創造的破壊』という著書で語っている「文化の多様性は閉じることでなく、開かれることで守られる」という視点はとても重要です。文化が自己完結型になってしまうと、その文化はどんどん時代遅れになり、結果的に停滞してしまいます。でも、他の文化と触れ合い、刺激を受けたり、時には衝突しながらも新しい形に進化していくことで、むしろ豊かさが生まれるんですね。

たとえば、海外で食べられている「日本食」なんて、日本で私たちが触れているものと比べるとだいぶ奇抜に見えます。でも、それが現地の人々が日本に興味を持つきっかけになるかもしれません。海外でロールスシを食べた人の一部が、「本場のスシって、実はこれとは全然違うらしいぞ」って気になって、東京まで来て江戸前寿司を食べるかもしれない。

あるいは、スタバでマッチャラテを飲んだ人が、「マッチャってもともとは全然違う飲み方をするらしい」って知って、茶道に興味を持つことだってあるかもしれません。結局のところ、文化が世界中で広まることで、オリジナルの形が失われるわけではなく、むしろその文化が新しいコンテクストで息を吹き返し、豊かになるんです。

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文化の交流を阻むもの

「文化の盗用」を指摘されてるような事例のなかには――たとえばHokaのケースもそうかもしれませんが――実際には、悪意のある「搾取」ではなく、むしろ他文化から受けたインスピレーションの産物にすぎなかったものもあるはずです。創作のプロセスで、自然と他の文化に惹かれ、何かを取り入れてみたくなる。それって、健全な文化交流の一部って言っていいんじゃないでしょうか。

でも、批判する側から見ると、こうした創作者の意図や、Cowenさんの言うようなポジティブな側面はあまり重視されません。代わりに、「権力を持つ側による搾取」や「植民地主義の延長」といった構図に、すぐに当てはめられてしまう。そして皮肉なことに、その批判自体が、乗り越えようとしているはずの「固定された構図」――つまり、強者 vs 弱者、搾取する側 vs 搾取される側――をむしろ強化してしまっているようにも見えるんです。

さらに、こうした議論では「集団的アイデンティティ」、たとえば「マオリであること」といった属性が、過剰に強調されてしまう傾向があります。個人の視点——たとえばHokaの創業者やデザイナーがマオリ文化を尊重するつもりだったか——とか、特定の文化的要素が新たな文脈でどう機能するか——たとえばマオリ語の「飛ぶ」という概念はHokaを履いたランナーにどんなインスピレーションを与えてるんだろう——とか、そういったことは置き去りにされがちで、すぐに「神聖な言葉を靴に使うのは冒涜だ」といった批判が先行してしまう。対話や相互理解の余地がどんどん狭められてしまうんですね。

そしてもう一点重要なのは、こうした批判の多くが、「誰かが不快に感じた」という主観を出発点にしていて、文化にとって実際にどんなマイナスがあったのか、たとえば経済的な損失や文化的衰退といった具体的な影響が検証されないまま進んでしまうことが多いという点です。

Hokaのケースでも、「マオリ語が冒涜された」って感じること自体は理解できますが、その感覚がマオリ社会全体にとってどのくらい共有されているのか、あるいは実際にマオリの文化にどういった悪影響が出ているのか、そこはもっと慎重に見ていく必要があるんでしょうね。

Hoka

Cowenさんのような立場からすると、文化の盗用をめぐる過剰な批判は、むしろ「文化的純粋主義」を促進してしまい、文化と文化の間に壁をつくる方向に働いてしまう。結果的に、文化の盗用という概念がどんどん拡大解釈されていって、表現の自由や創造的な交流を委縮させるような空気を生んでしまっている――そんな懸念が、近年強まっています。私達はそのリスクをもっと意識する必要があるのかもしれません。

「盗用」批判の先に

さて、そろそろ今日の話をまとめましょう。

「文化の盗用」っていう言葉は、文化を守るための正義の剣のように響きます。誰かが他の文化を小馬鹿にしたり、元の文化の文脈を意図的に軽んじたりする形で利用する——それは確かに問題です。文化に対する敬意を欠く行為は、どんな形であれ、受け入れがたいものですよね。

でも、ここで立ち止まって考えてみる必要があります。さっき話したように、文化ってそもそも本質的に混血的なものですよね。クラシック音楽も、ジャズも、ロックンロールも、それぞれ違う文化圏の要素が出会って、混ざり合って、生まれてきた。「文化の盗用」を訴える側の文化でさえ、歴史的に見れば「純血」なものなど存在しません。どの文化も長い時間をかけて様々な要素を取り入れながら変化し、今日の姿があるんです。文化はグラデーションを持って広がり、絶えず流動し続ける生きた有機体なんです。

では、「盗用」と「交流」の境界はどこにあるんでしょうか?これもまたグラデーションであり、明確な線引きは困難です。すべての文化的借用を「盗用」と決めつけて白黒をつけようとすると、自由な表現や新しい文化の芽を摘んでしまう危険があります。実際、「文化の盗用」という議論が過度に広がると、アーティストやクリエイターは「地雷を踏まないように」って萎縮して、他文化に触れること自体を避けるようになります。その結果、文化間の交流が減少し、相互理解の機会も失われていきます。文化は停滞し、本来持っていた活力を失ってしまうでしょう。

というわけで、最後に私から一つ提案。私たちは「文化の盗用」という言葉そのものを見直すタイミングに来ているのかもしれません。「盗用」という言葉は、最初から相手を非難し、線を引くことを前提とした語感を持っています。なので、本来もっと多様で曖昧であるはずの文化的な現象を、単純な「善悪」や「加害・被害」の構図に押し込めてしまいがち。話を始める前からすでに「こっちが正義、あっちは悪」みたいな構図を決めつけてしまっていて、結果として、対話や相互理解の可能性が閉ざされ、批判と自己検閲だけが残ってしまう。

もちろん、文化に対するリスペクトは大前提です。でも同時に、文化というものが本質的に「流れ」であり、「混ざり合い」であることを踏まえれば、私たちにはもっと柔軟な語彙と視点が必要なんじゃないかと思います。「盗用か否か」という問いの前に、まずその表現がどんな文脈から生まれ、どう受け取られているのか、どんな意図や影響を持っているのか。そうしたグラデーションの中で物事を考えることが、これからの文化的共存には不可欠なんじゃないでしょうか。

だからこそ、あえてこの言葉を安易に使うのをやめてみる。そして、「文化の盗用」という強いラベルの代わりに、「文化との接し方」「表現の文脈」「敬意のあり方」みたいに、もうちょっとだけ丁寧な言葉で考え、語ってみる。そうすることで、私たちは「盗まれた」「盗んだ」という対立から一歩離れて、文化の豊かさと可能性を前向きに語ることができるんじゃないかな、と。

……さて、冒頭で「覚えて帰ってください」って言った言葉を「使うのやめてみませんか」ってオチが付きました(笑)。でも、こうやって考え直したり、疑問を持ったりすることこそが、文化を理解しようとする第一歩なんじゃないかと思います。ということで、今日はここまで。お疲れさまでした!

🐏 Behind the Flock

“Sheepcore”で取り上げたテーマをさらに深掘りしたり、補完する視点を紹介します。群れの中に隠された本質を探るようなアプローチを志向しています。

1. 文化の盗用が適切であることはあり得るのだろうか?

「文化の盗用」は一概に悪とは言い切れず、敬意と理解があれば文化交流は双方に利益をもたらし得る。たとえば、インドのスイーツ「ラスグッラ」の起源を巡り、オディシャ州とベンガル州が対立、両者が歴史的文献で主張を戦わせるなかでポルトガル起源説までが浮上したように、レシピや文化は常に移動してきた。重要なのは、「本物」かどうかではなく、他者の文化をどう扱うかという態度だ。尊敬をもって接し、関係するコミュニティと関わり、出自を明示する。Nigella Lawsonによるクリーム入りの「非正統なカルボナーラ」や、ゴールデンミルクラテの流行にも見られるように、創造性と配慮は両立し得る。盗用か称賛かの境界線は曖昧だが、対話と想像力によって乗り越えることは可能だ。結局、求められるのは「思いやりあるまなざし」だろう。

2. 多様性の尊重が行き過ぎたとき

「文化の盗用」という概念は、定義が曖昧で、しばしば無害な文化交流を不当な非難に変えてしまうこともある。例えば、メットガラでは(文化の盗用の名のもとに)中国風の衣装が非難された一方、キリスト教モチーフのコスチュームは批判を免れた。このように、批判は権力関係に基づく選別的なものとなりやすく、表現の自由や文化の共有を妨げる。文化は常に混淆と借用によって進化してきたものであり、「盗用」という言葉自体がその本質を誤解している。文化の盗用という概念は、むしろ廃棄されるべきなのではないだろうか。

3. 文化の盗用は美しくありうる

「I Wonder What Became of Me」は、白人作曲家が黒人文化の影響を受けたことで生まれた楽曲であり、その融合の美しさこそが「文化の盗用」の本質を示している。作詞・作曲を手がけたHarold ArlenとJohnny Mercerは、ブルースやジャズの要素を欧州音楽と融合させ、感情豊かな音楽を創出した。アメリカでは、ラグタイムやジャズなど、白人と黒人の文化的影響の交差から新たな表現が誕生し、それは言語や身体表現にまで及んでいる。もちろん、権力の非対称性を無視した模倣は問題だが、文化の共有と変容は共生する社会の自然な結果でもある。黒人文化の取り込みは、同時に「白さ」の相対化でもあり、多民族社会アメリカの進化を象徴するものだ。

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The Rest Is Sheepsが日常で出会った至高(笑)の体験をあなたにも。

ロエベ展、今週末で終了します!5月11日(日)迄

ロエベ初の大型展『ロエベ クラフテッド・ワールド展 クラフトが紡ぐ世界』がいよいよ5月11日(日)に幕を閉じます。原宿を舞台に、無料とは思えぬ贅沢な展示内容で多くの来場者を魅了。

11年間クリエイティブディレクターを務めたジョナサン・アンダーソンが退任し、新たな指揮者として、『プロエンザ・スクーラー(PROENZA SCHOULER)』を創業したデザインデュオのジャック・マッコローとラザロ・ヘルナンデスを迎えるなど、2025年、変革の時を迎えているLOEWE。

展示内容は予想を超える充実ぶり。スペインの皇室御用達から始まったブランドの歴史、熟練職人による緻密な工程、アンダーソン時代のアイコニックなコレクションの数々まで—ラグジュアリーとクラフトマンシップの融合を体感できる、無料とは思えないほどの満足感で大盛況とのこと。

私も日々のタスクに追われすっかり後回しにしていましたが、あっという間に会期終了が迫り、なんとか滑り込みで予約をしたところ。まだご覧になっていない方は、この週末が最後のチャンス!駆け込み必須🐏

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