#017_Sheep “ステアではなく、シェイクで”

『007』シリーズの象徴、ボンドのマティーニにまつわる物語。AFIが選んだ名台詞とともに愛され続ける一杯は、映画を超えて現実の文化に。『カジノ・ロワイヤル』で誕生した「ヴェスパー・マティーニ」には、彼の失われた愛と哀しみが込められている。Amazonの新体制下、次なるボンドのグラスに映るのは、どんな未来かーー。

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🔍 Sheepcore

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“ステアではなく、シェイクで”

©️The Rest Is Sheep

「マティーニお願いします。あ、ヴェスパーで」

「ヴェスパー・マティーニですね、かしこまりました。映画館行かれました?」

「はは、フライトで見ちゃいました。やっぱりこの時期、注文多いですか?」

「そうですね。ヴェスパーはそこまで多くないんですけど、マティーニ全般の注文は明らかに増えますね」

「ウォッカとシェイク?」

「はい、そのようにご注文いただくお客様もたくさんいらっしゃいます(ニヤリ)」

いつかのボンド映画の公開直後、いつものカクテルを注文しながらバーテンダー交わしたのは、こんな会話だった。


スタンダードなマティーニよりも研ぎ澄まされた清涼感が、突き刺さるように疲れた身体に染み込む。ジンとウォッカが生み出す鋭いキレ、氷のように冷たく澄んだ口当たり、そして鮮烈な辛さの奥に漂うレモンピールの爽やかな香り——どれもがヴェスパーならではの魅力だ。しかし、このカクテルを真に特別なものにしているのは、その味わいだけではない。ジェームズ・ボンドと、その誕生の物語こそが、ヴェスパーに唯一無二の輝きを与えている

Shaken, not stirred.

映画史上最も有名なスパイ、ジェームズ・ボンド。『007』シリーズを通じて、ボンドの手には常に完璧なマティーニが握られている。それは優雅さと洗練、そして危険の象徴だ。ボンドがマティーニを注文し、口にするシーンは優雅な瞬間である一方、しばしば重要な展開の前触れとなる。敵のアジトに潜入する前の緊張感のある静けさ、美しい女性との出会い、重要な情報を得るための交渉の場。マティーニは、物語の展開を予感させる「儀式」としても機能している。

ボンドにとってマティーニとは、彼の生き方、魅力、そして複雑な内面を映し出す鏡のような存在であり、自らの冷静さと機知を表現する道具でもある。世界が崩壊しかけていようと、敵に囲まれていようと、ボンドは決して慌てることなく、自らのスタイルで注文したマティーニを優雅に口に含み、状況を分析し、行動を起こす。その姿勢こそが、ボンドが半世紀以上にわたって世界中の観客を魅了してきた理由の一つだ。

しかし、よく知られているように、ジェームス・ボンドのマティーニは、一般的なマティーニからはかなり逸脱している。通常、マティーニはジンベースのカクテルで、バー・スプーンでステアして作られるが、ボンドはこう注文する――「Vodka martini. Shaken, not stirred(ウォッカ・マティーニ、ステアではなく、シェイクで)

映画版で最初にボンドが「Shaken, not stirred.(ステアではなく、シェイクで)」というフレーズを口にしたのは、ショーン・コネリーがボンド役をつとめた映画第3作『ゴールドフィンガー』(1964年)だが、この一言には、ボンドらしさが凝縮されている。彼は自分の好みを明確に理解し、細部にまでこだわることを躊躇しない。この姿勢は、スパイとしての自信と決断力の表れであり、マティーニは彼の美意識と哲学を象徴するアイコンなのだ。

アメリカン・フィルム・インスティチュート(American Film Institute、AFI)は2005年7月21日、過去100年間の映画における最高の映画のセリフのリストで、この映画の「A martini. Shaken, not stirred.」を90位に選んだ。

ヴェスパー・マティーニ

2006年の『カジノ・ロワイヤル』は、ダニエル・クレイグ演じる新生ジェームズ・ボンドの登場とともに、 新たなマティーニを生み出した。それが、ヴェスパー・マティーニだ。ボンドは、緊張感と不安感が高まるカジノの勝負中に、かつてないほど具体的な指示をウェイターに出している。

Bond: Dry Martini. Wait. Three measures of Gordon's, one of vodka, half a measure of Kina Lillet. Shake it over ice, then add a large thin slice of lemon-peel.
ボンド:ドライマティーニ。いや、待って。ゴードンジン3に対してウォッカ1、キナ・リレ1/2。氷でシェイクして、大きめにスライスしたレモンピールを添えて。)

そして、できあがったマティーニを一口飲んだあと、こう口にする。

Bond: You know, that's not half bad. I'm gonna have to think up a name for that.
ボンド:イケる味だ。名前を考えよう。)

『カジノ・ロワイヤル』以降、ヴェスパー・マティーニは世界中で人気を博し、バーの定番メニューとして定着した。ただし、その後キナ・リレが製造中止となったため、リレ・ブランや類似のリキュールで代用されることが多い。それでも、ボンドファンにとってこの一杯は特別だ。ヴェスパー・マティーニは、ボンドの物語がスクリーンを超えて現実の文化に影響を与えた証でもある。

画像:ヴェスパー・マティーニ

「アレクサ、ウォッカ・マティーニをステアではなく、シェイクで

『カジノ・ロワイヤル』は6代目のジェームズ・ボンド、ダニエル・クレイグが最初に登場した作品だ。彼のボンドは、より荒削りで感情を見せる人間味のあるスパイとしてシリーズの新たな方向性を示した。それから15年、クレイグは自身5作目の『ノー・タイム・トゥ・ダイ』(2021年)を最後にその役を退いたが、それと前後する形でAmazonがボンド映画を製作するMGMの買収を発表(2021年)、規制当局による承認を得てその手続き完了(2022年)し、映画界に衝撃を与えることになる。そしてそれ以降、新たなボンド映画の発表はなく、シリーズは沈黙を続けていた。

昨年12月、ウォール・ストリート・ジャーナルが報じるまで、多くの人々は次回作の遅れを「ダニエル・クレイグの後任選びが難航しているため」と考えていた。しかし、問題はそれ以上に根深かった

AmazonはMGMを買収したものの、ボンド・シリーズの制作決定権――キャスティングや脚本を含む最終的な意思決定――は、これまでと変わらずブロッコリ一族(マイケル・G・ウィルソンとバーバラ・ブロッコリ)が握っていた。そんな中、ブロッコリとAmazonの関係は決定的に悪化。バーバラ・ブロッコリはAmazonを「とんでもないバカよ」と切り捨て、同社のアルゴリズム主導のビジネスモデルへの不快感をあらわにした。彼女にとってAmazonは、トイレットペーパーから掃除機まで何でも売る巨大リテーラーであり、ボンド映画のような作品を託すにはふさわしくない存在だったのだ。

Amazon側からすれば、これは不当な評価だったかもしれない。しかし、ボンド映画の未来を決めるのはあくまでブロッコリである。脚本やキャスティングといったクリエイティブ面の決定権を握る限り、彼女はボンド・フランチャイズをAmazonの手の届かない「人質」として保持できる立場にあった。ウィルソンとブロッコリの支持なしに、新作映画を制作・公開することは不可能だったのだ。

この膠着状態が長引くと見られていたなか、2025年2月20日、状況は突然動いた。Amazonがウィルソンとブロッコリからボンド映画の制作決定権を取得したと発表したのだ。これにより、Amazonは今後、新作映画やスピンオフ作品を自由に制作できるようになった。発表直後、Amazon創業者のジェフ・ベゾスがX(旧Twitter)に「Who’d you pick as the next Bond?(次のボンドに誰を選ぶ?)」と投稿し、シリーズの行方をめぐる議論はにわかに活気づいた。

ボンドとマティーニのゆくえ

ボンド映画の未来は大きく動き出した。しかし、その変化の中で、映画や彼の本質はどこまで保たれるのか。それを考える上で、ボンドというキャラクターを形作った象徴的な瞬間のひとつに立ち戻ってみよう。

ヴェスパー・マティーニが誕生した、あの歴史的な場面だ。それは、スクリーンの上の物語が現実の文化へと浸透した瞬間でもあった。ボンドは、自ら考案したカクテルを片手に、やがて彼の人生を永遠に変える女性――ヴェスパー・リンドと向き合う。

Bond: You know, I think I’ll call that Vesper.
ボンド:これをヴェスパーと名付けよう。)

Vesper: Because of the bitter aftertaste?
ヴェスパー:後味が苦いから?)

Bond: No. Because once you tasted it, that’s all you want to drink. I thought that was quite a good line.
ボンド:いいや。一度味を知ると、他のものは飲めない。我ながらいいセリフだと思うんだけど。)

Vesper: It was a very good line.
ヴェスパー:ええ、とてもいいセリフね。)

この短いやりとりには、彼らの関係のすべてが詰まっている。ボンドは彼女に心を開き、スパイの世界を捨てる未来さえ思い描いた。だが、彼女は裏切り、そして彼のもとから永遠に消えた。彼女の死は、ボンドの魂に冷徹さと孤独を刻み込んだ。彼は愛を信じることをやめ、感情に流される自分を許さなくなった。しかし、それでも――彼女の名を忘れることは決してできない。

だからこそ、ヴェスパー・マティーニは特別なのだ。一度その味を知れば、他の何を飲んでも満たされなくなる。それは、彼女を愛した記憶と、その愛を失った痛みの象徴。このカクテルには、彼の過去が静かに封じ込められている。そして彼女の死後、ボンドは二度とこのカクテルを注文しない。なぜなら、それは取り戻せない過去であり、彼を「ジェームズ・ボンド」に変えた瞬間そのものだからだ。

Amazon MGM Studiosが手がける新たなボンドの物語では、彼のグラスに注がれるのは「Vodka martini. Shaken, not stirred. (ウォッカ・マティーニ、ステアではなく、シェイクで)」とは異なる何かかもしれない。しかし、ボンドがどんな一杯を選ぼうとも、そのグラスには彼の本質が映し出されるべきだ。彼が伝統を受け継ぎながらも、時代の観客を魅了する鮮やかさを保つこと。そして、彼の手にするカクテルが、優雅さと洗練、危険の香りと哀愁をまとうこと。それこそが、ボンドという男の本質であり、彼の物語に寄り添うマティーニの本質なのだから。

次なるボンドは、どんな一杯を求めるのだろうか。その答えは、次の作品で彼がバーテンダーに向かって発する最初の一言に宿るだろう。

🐏 Behind the Flock

“Sheepcore”で取り上げたテーマをさらに深掘りしたり、補完する視点を紹介します。群れの中に隠された本質を探るようなアプローチを志向しています。

1. ボンドは誰のものか?――Amazonとブロッコリ家の対立が招く膠着状態

2024年12月の記事。AmazonのMGM買収から3年、ボンド映画の未来は暗礁に乗り上げている。製作の決定権を持つバーバラ・ブロッコリと、Amazonの間で対立が深まり、新作の見通しは立たない。ブロッコリはAmazonを「一時的な人間が永久的な決定を下すべきでない」と批判している。AmazonはスピンオフやTVシリーズを模索したが、契約による制約で進展させることが難しい状況。2024年12月時点では脚本もキャストも未定で、ボンドの次回作は長期戦となる可能性が高いとされていた。

2. ジェームズ・ボンドにふさわしいヴェスパー・マティーニの作り方

ヴェスパー・マティーニは、『カジノ・ロワイヤル』でジェームズ・ボンドが注文したカクテルで、ジン、ウォッカ、キナ・リレを使用し、レモンピールを添える。考案者のイアン・フレミングは、軽めのマティーニを好み、海軍情報部時代に出会った女性エージェント、コードネーム「Vesperale」にちなんで命名した。ボンドは「シェイクして」飲むが、これはカクテルの味や口当たりを変え、より冷たく、飲みやすくなる(とはいえ、アストンマーティンの運転には不向きだ)。ヴェスパーは『カジノ・ロワイヤル』にのみ登場し、その後ボンドは異なるカクテルを選ぶようになった。

3. マティーニ文化を変えた映画たち

『イヴの総て』ではオリーブの代わりにパールオニオンを飾ったギブソンが登場し、『メイム叔母さん』では「ジンを傷つけないためのステア」が語られる。最も有名なのは『007』シリーズで、ジェームズ・ボンドの「ステアではなくシェイク」がカクテル文化に影響を与え、『カジノ・ロワイヤル』では彼独自のヴェスパー・マティーニが紹介される。近年では、『華麗なるギャツビー』でジェイ・ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)がマティーニグラスを掲げるシーンが主流メディアに取り上げられ、バイラル・ミームとなったほか、『シンプル・フェイバー』での「本物のマティーニ」も話題となった。映画はマティーニのスタイルとステータスを形作り続けている。

🫶 A Lamb Supreme

The Rest Is Sheepsが日常で出会った至高(笑)の体験をあなたにも。

さようなら、砂糖爆弾。米スタバの原点回帰戦略が進む。

3月1日、米スターバックスはフラペチーノを中心としたドリンクメニューの13種を廃止することを明かした。これは昨年9月に就任したブライアン・ニコルCEOによる「人々が集いたい場所」への原点回帰の一環。多様化し、複雑化するメニューラインナップにメスが入ったのだ。

この廃止の理由は「人気がない」だけでなく、「バリスタの悲鳴が聞こえる」ほどの工程の複雑さと労働集約性にある。「キャラメルリボンクランチクリームフラペチーノをエクストラシロップで…」と言い終わる前に老化してしまうほどの注文時間も問題視された模様。同社は今後、メニューをさらにシンプルにし、人気の高い商品に集中することで卓越したサービスの提供を目指しているとのこと。

入店からノールックでドリップを注文し、Wi-Fiと電源さえあれば満足している私にとって、正直このメニュー改変は「遠い国の出来事」程度の関心しかない。それでも、「#001 スタバとブックバーから考えるサードプレイスの未来」でも触れたように、インスタ映えより交流がある、コーヒーの香りと人の温もりが漂うスタバに戻り、再起を図れるのか気になる。今後の動向に要注目。

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